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仕事を辞めて無職になったとき、毎日やらなければならないことは、飼い犬の散歩と金魚に餌をやることでした。簡単な食事を作り、小説を少し読んで、レコードを聴いて、録画した映画を観るのが日課でした。日々聴くのはジャズでした。人に話すと羨ましがられるのですが、愉しいことはございません。 |
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それでも楽しみは、週に一回くらい原付バイクを30分程走らせ吉祥寺に行くことでした。古レコードを数枚持って、中古店でそれを売り、1枚気に入ったものを買います。それから、古本屋で安い文庫本を買い、ジャズ喫茶で3時間余りを過ごします。帰りがけに豚骨スープのラーメンを食べて家に向かいます。いつもの古レコード店でのこと、目が離せなくなったジャケットがございました。 |
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赤い縁取りのなかに、大きな帽子と眼鏡をかけた少し病的な少年(?)ミシェル・ペトリチアーニ。レコードのジャケットを見て直感で買うことの多い私は、その日の一枚をそれに決めたのでした。帰ってレコードに針を落とし、ピアノの音が響き出したとき、それまで聴いたことのないような音色に驚きました。鍵盤を叩き付けるようなストレートで透明感のある音、そして美しいフレーズ。曲は『酒とバラの日々』でございました。 |
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特異な病気のためにペダルにも足が届かない。ピアノを弾くことなど不可能と思える身体で、幸福感あふれる音楽をかもし出す。ペトリチアーニ18歳のデビュー作が、この通称「赤ペト」だと後で知りました。不覚にも、感動で涙した唯一のレコードです。そして彼は、1999年に36年間の短い生涯を閉じたのでございます。 |
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